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日本26聖人殉教者 Sts. 26 Martyers Japonenses   記念日 2月5日



 聖フランシスコ・ザビエルが始めて我が日本に聖教の種子を播いて以来、熱心な宣教師の血と汗を流してこの地を耕す者多く、降り注ぐ聖寵の慈雨も豊かに、布教わずか六十年にして聖教の種子は見上げるような大木に成長し、その木陰に憩い真の神なる天主を礼拝讃美するキリシタンは、大友、有馬、大村、高山、小西、内藤、黒田等歴々の諸大名を始めとし、殆ど百万を算するという盛況であった。
 フランシスコ・ザビエルが鹿児島の浜辺に第一歩を印した西暦1549年(天文18年)から、日本に於ける聖会中絶の年とされている1630年(寛永17年)までの受洗者数を調べて、教勢発展の跡をたどれば次の通りである。

 1549年から1598年まで   500,000人
 1598年から1614年まで   152,900人
 1614年から1630年まで    25,000人
 累計          
       677,900人

 この統計中にはキリシタンから生まれた幼子の受洗数は含まれていないから、それも合わせるとすれば、大迫害の始まった1614年頃に於ける日本全国のキリシタン総数は、およそ百万と見ても決して多すぎないと考えられる。

 ザビエルが日本に到来したのは室町時代であったが、当時既に足利将軍の権勢は地に堕ち、その号令の及ぶは僅かに畿内に止まり、地方は諸大名は各々その領地によってまつりごとを専らにしている有様であったから、己が領民にキリシタン衆を奉じさせるも、禁ずるのもまた、それぞれの大名の思いのままであったのである。しかしまず織田信長が、次いで豊臣秀吉が、最後に徳川家康が武力を以て天下を統一し、宇内の政治を掌中にするに及んでは、キリスト教の許否も彼らの意志によって全国的に定められるに至った事はいうまでもない。かくて信長は仏教僧侶の専横を憎み、キリスト教を保護したから、その教勢の進展は目覚ましいものがあったが、秀吉に至って1587年(天正15年)はじめて聖教を厳禁し、聖堂を破壊し、宣教師を国外に追放するなど圧迫を加えだした。とはいえその時はまだ激しい迫害でもなかった。しかしそれより十年を経た1597年(慶長2年)には、長崎市外立山においてはじめて二十六殉教者の聖血が十字架を染めるに至った。その中五人はスペインとポルトガル、メキシコから来た宣教師や修道者等で、残り二十人が日本の信者であった。今その芳名を列記すれば。
(括弧内は十字架の順番、東側から)

聖ペトロ・パプチスタ           フランシスコ会司祭、48歳(11)
パリラの聖フランシスコ         フランシスコ会修士、53歳(16)
御昇天の聖マルチノ           フランシスコ会司祭、30歳(12)
聖ゴンザレス・ガルシア         フランシスコ会修士、ポルトガルの人、40歳(14)
聖フランシスコ・ブランコ         フランシスコ会司祭、28歳(15)
聖パウロ三木               阿波徳島の人、イエズス会修道士、説教師、33歳(6)
イエズスの聖フィリポ          フランシスコ会修士、メキシコの人、24歳(13)
聖ヨハネ五島(諏訪野)         五島の人、イエズス会修道士、伝道士、19歳(8)
聖ディエゴ喜斉(市川喜左衛門)   備前の人 イエズス会修道士、伝道士、64歳(5)
聖パウロ鈴木               尾張の人、フランシスコ会伝道士、説教師、49歳(26)
聖ガブリエル               伊勢の人、同宿、19歳(25)
聖ヨハネ絹屋(喜左衛門)       京都の人、織物師、信徒、28歳(24)
聖フランシスコ医師(那須)       京都の医師、豊後の大名大友宗麟の侍医、46歳(22)
聖ルドビコ茨木              尾張のレオン烏丸の子、最年少、京都の同宿、12歳(9)
聖ヨアキム榊原             大阪の人、武士、40歳(21)
聖ボナヴェントゥラ            京都の人、元僧侶、信徒、年齢不詳(19)
聖マチアス                 京都の人、信徒、年齢不詳(17)
聖ミカエル小崎              伊勢の人、弓矢師、フランシスコ会第三会員、46歳(4)
聖コスメ竹屋               尾張の人、刀研師、大阪の伝道士、38歳(2)
聖トマス小崎               伊勢の人、聖ミカエル小崎の息子、同宿、15歳(20)
聖アントニオ                長崎の人、同宿、父は中国人、母は日本人、13歳(10)
聖フランシスコ吉             京都の大工、同宿、自ら願いで殉教者になる、年齢不詳(1)
聖レオン烏丸(茨木)          尾張の聖パウロ茨木の弟、京都の伝導士、48歳(18)
聖パウロ茨木              尾張の人、桶職人、聖レオン烏丸の兄、54歳(7)
聖トマス談義者             伊勢の人、薬師、フランシスコ会の説教師、36歳(23)
聖ペトロ小崎助四郎          京都の人、殉教者の世話の途中自らも縄も受ける、年齢
                       不詳(3)

 これらの信仰の英雄二十六人はさまざまの残酷な責め苦拷問を受けた後、厳冬の天候の中京都から長崎まで護送され、2月5日同地に到着、直ちに刑場の立山に引かれた。その様、苦しみつつカルワリオ山を登り給うた主イエズスにも似て、長い旅路に疲れ果て、力萎えつつ荒々しく刑吏に追い立てられて行くのは見るも痛々しい限りではあったが、彼らは目に喜びの涙を堪え、熱と乾きに乾割れた唇に、ロザリオの祈りを絶たなかったのである。

 刑場には既にそれぞれの名を記した26基の十字架が一列に立ち並んでいた。それを仰ぎ見た殉教者の口からは、自ずと「ああ、聖主の御死去あそばされた聖い十字架、我々も聖主と同様にあれに磔けられて生命を献げるのか」という感激の叫びがほとばしった。そして彼らはさながら貴重なものでも贈られたかのように、最後の力をふりしぼってその十字架の傍に走り寄りそれに感謝の接吻をした。中でもマルチノ師は声をあげてデ・テウムを歌い出した。すると他の人々も一斉にそれに唱和するのであった。
 日ははや西に傾いて、名残の光線は海の方から血のように紅く、山頂の十字架を照らした。殉教者達がその十字架に縄で縛められる間、刑場を囲む観衆は水を打ったように静まりかえってそれに見入るばかりであった。
 その荘厳な沈黙の中に、突如ペトロ・パプチスタ師の声が響いた「せめて私だけは釘で手足を十字架に打ち付けて下さいませんか」・・・ああ何たる壮烈な願いであろう。しかしその望みは叶えられなかった。ただ一同の頭首とも目される彼だけに他の人々と区別して只縄の代わりに鎖で縛りつけられた。そのため手足の痛みが一層甚だしくなる事はいうまでもあるまい。その残酷な処置を見ると周囲の見物人達はざわめき渡り、中には刑吏に対し腹立たしげな叫びを漏らす者もあった。けれども当のペトロ師は祈るように天を仰いだり苦痛をこらえるように目をつむったりするだけで一言も発しなかった。その身体は肉に食い入る鉄鎖の痛みにワナワナと打ち震えている。が、彼はなおも血の気のない唇を動かしてか弱い声で讃美歌を歌い、また祈りをつぶやくのであった。
 
 突然刑場を囲む竹矢来を破って一人の男が群衆の中から十字架の傍へ馳せ寄った。それはヨハネ五島の父親であったが彼が十字架に縛り付けられている我が子の足をいとしげに抱きしめると、ヨハネは僅かに頭を動かして深い悲しみに打ち沈んでいる父を見下ろし、まるで何の苦痛も感じていない人のように平静な声で言うのであった。
 「父上、お泣きなされますな。私共はただ今互いにこの世とあの世へ別れねばなりませぬが、それはほんの束の間の事でござります。やがて天国なる天主様の御許にて再会の暁は、もはや永遠に別離の悲哀はござりませぬ、私共の苦しみとてもその通り、一瞬にして過ぎ去るもの、私の罪の重さと天国の永遠の幸福とを思い合わせますれば、これしきの苦悩はまだ軽すぎる位でござります。父上、私は一足お先に天主様の御許に参り、父上の為にお祈り申しましょう。この先如何なる事がござりましょうとも、構えて一途の信仰をお捨てなされますな。どうぞ聖主イエズス様に祈念をこらし、父上の余生を天主様にお献げ下さりますように」
 そこへ刑吏等がやって来て涙にむせぶ父親を、子の十字架の下から拉し去った。

 いよいよ処刑の時が近づくや、三木パウロはやおら面を群衆の方に押し向け、厳かに口を開いた。「見物の方々、それがしが末期の言葉を心して聞かれよ!それがしはこれ国家に背く大逆人にも非ず、方々と均しく忠良なる「日本の民の一人なり。さるを今ここに磔られたるは、ひとえに世の救い主イエズス・キリストの聖教をのべ伝えたるによるもの、されどこの苦しみは大いなる天主の御聖寵にしてわが無上の喜びとする所なり。見物の衆よ、それがしが言葉を夢々疑い給うなかれ、古語にもいわずや、人の死なんとする、その言やよしと。それがしは今絶えなんとする玉の緒にかけて断言せん、この真の神、天主の聖教を他にして、永遠の生命に入る途は又とござりませぬぞ!それがし等ここに罪無くして十字架に磔るといえども、生命を奪う人々に対しても、つゆ怨みの心をも抱くものに非ず、唯方々及び我が日の本の国民がことごとくこの同じ救いの途に入り給わん事をひたすら希うのみ・・・・」
 その声、爽やかな鈴の音の如く冴えて、人々の心にしみ入った。満場、胸を打たれて、咳一つ聞こえず、深山の静寂をおもわせた。

 地上には落日の名残もようよう薄れて、青い夕闇が這い寄ろうとしていた。けれども信仰の英雄達には、既に天上の黎明がその薔薇色の光を落としていた。静かに静かに開けゆく永遠の世界の扉!・・・
 各々十字架の下に刑吏が二人ずつ歩み寄って、手にした槍をキラリ、キラリと右左から、殉教者の目の前で衝と十文字に組み合わせた。
 「イエズス・キリスト!」
 「サンタ・マリア!」
 「天国(パライソ)!天国!」
 「おお、天主(デウス)!」
 「わが魂、御手にまかせ奉る」

 恍惚と天を仰ぎつつ、口々に誦える最後の祈り。それに悄然と槍の穂先の触れ合う寒い響きも交じる。

 「よし、やれい!!」

 命令一下、閃く光、ブスリ、ブスリと左右から、各殉教者の脇下を背中へと貫く二本の槍。鮮血がサッとほとばしってその肉体がグッとのけぞるように動く、と見るとガクリ、頭を落として大きく最後の息を引き取る二十六聖。-
栄えある戦いは今ぞ終わったのである。

 1862年、教皇ピオ9世はこの日本教会最初の二十六殉教者を聖人の列に加え、毎年2月5日を以て全世界にその壮烈な最後を記念する事とされた。


教訓

 光栄ある二十六聖人殉教者の子孫と生まれた我等は、祖先の偉功を誇りとするのみでなく、自らも彼らの如く金剛不壊の信仰を築き、何ものにもこれを奪われるような事があってはならない。今は無事であるからといって惰眠を貪るべきではない。戦いや迫害は常にある。ただその方法が今日では昔と違って千差万別であるばかりである。それはしばしば真槍や白刃にも勝って危うく恐ろしい。というのはこちらでそれと気づかぬ内に我等の魂を滅ぼすからである。されば「目覚めて祈れ!」(マタイ26・41)




聖ディエゴ喜斉  聖パウロ三木  聖ヨハネ五島
日本人イエズス会会員の殉教者



 パウロ三木は自分の前にある宣告文の書かれた高札に目をやると、十字架の上から身をのり出すようにしてはげしい声で群衆にむかって語りかけました。

「ここにいるすべての人びとよ、私のいうことをお聞きください。
高札の宣告文によると、私たちはフィリピンから日本にやってきたものどもとありますが、
私はそうではありません。正真正銘の日本人であります。私が処刑されるただひとつの理由は、
私がイエズス・キリストの教えを説き。教えたというかどによるものです。

 私ははばからずに申し上げます。

 私はまさしくイエズスさまの尊いみ教えを説きました。そして、そのためにはりつけにあって死ぬことを、もっともいさぎよし、心から神に感謝するものであります。
 人は死にのぞむとき、まことのことを申すといわれていますが、私はいま死にのぞんで、
真実のみを語ります。・・・・・・
あなた方ご自身が幸せになれますように、イエズスさまにお助けをお願いください。

 私はイエズスさまに従いました。イエズスさまを見ならって、わたしも迫害する人たちをゆるします。私は私たちに死を宣告した主君も、刑を執行する人たちも、少しも憎んだりうらんだりはしません。

私はすべての日本人がキリスト教の信者になることを望みます。


 神がすべての人々の上に、あわれみをたれたもうことを、祈ります。

 私の流す血が、みなさまの上に、豊かなみのりをもららす慈雨となりますように願っております・・」


この「二十六の十字架」は日本二十六聖人の殉教について非常にくわしくわかりやすく書いてあります。是非お読み下さい。